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序章 ある雨の日の出来事
あるはずだった幸福
ショッピングビルの周辺は、通り行く人々を入り口へといざなうようにヨーロッパ製の磁器質タイルがモダンに敷き詰められている。そのタイルを今日は幾つもの雨粒が打ちつけ、小さな水滴になって跳ね返っていた。彼女は、左手で傘をさし、右手におもちゃの入った買い物袋を携え、しかも背中にはリュックまで背負っている。リュックの中身は息子の好きだった手料理がたくさん詰まっている。ちょっとつめ過ぎたかしらと、彼女は少しだけ後悔した。
雨の日にタイルの上を歩くということがどれだけ危険なことかを彼女は経験上知っている。いくら滑りにくいウォーキングシューズといえども、油断は禁物であるということも。かつて、何度か滑って転びそうになったことがあるのだ。それでなくとも、雨の日にこのような場所を歩くと、決まってふくらはぎや足首、ひざなどが痛んだ。そして、まさしくこの日も、確かに床は滑りやすく、危険だった。彼女は恐る恐るかつ慎重に一歩づつ足を運んだ。周りも見渡しても歩き方はみな慎重だ。決して自分だけではなかった。
しかし、災難は彼女に降りかかった。
左大腿骨頚部外側骨折、救急車で運ばれ、緊急手術の上、およそ二ヶ月間入院、退院後も甲斐甲斐しくリハビリをおこなってはいるが、いまだ完治する目処は立っていない。寝たきりにならなかったことが唯一、不幸中の幸いと言える大きな事故だった。
彼女は雨の日のタイルの床は滑りやすく転倒の危険があることを認知しており、決して急がず、油断することなく慎重に歩いていたにもかかわらず、結局、転んでしまった。くやしさ、情けなさ、そして、どうにもやりきれない気持ちで、入院中何度も涙を流した。
ビル風が吹いたのだ。雨がその風に乗って右の方からやってきた。彼女は、右手に持った買い物袋を庇おうとした。さっき買ったばかりの孫へのプレゼントが入っている。その時、左手の傘が風で飛ばされそうになり、バランスを崩した。右足だけが大きく滑走し、彼女は横転した。急ぎ、立ち上がろうとしたところ、左脚の付け根近辺に激痛が走り、あまりの痛さに大声を発した。彼女はそのまま立つことができず、駆け寄った男性の判断により、すぐさま携帯電話で救急車が呼ばれ、ストレッチャーに乗って病院へ搬送された。
彼女とその家族の幸せな団欒のひととき、孫の喜ぶ顔、そして、その後もつづくかも知れなかった穏やかな生活、彼女にとって奪われたものは大きかった。健康の有難味を本当に知っているのは、病を患ったことのある人だという言葉を聞いたことがあるが、まさしく、彼女もまた自由に歩けるということの有難味が身に染みている一人だ。
いったい、何が、彼女が望み、そこにあるはずだった幸福の未来を奪ったのか。
2004.02.11
鈴木じゅうじん [文]
Written by Juzine Suzuki
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